Midori Mitamura

三田村光土里

 

 
 

 

"Dramas which people can venture into"

   My installations are structured by diverse presentations using various materials such as photos, images, music, language, and found objects that lost those original functions. Also, they represent  "dramas which people can venture into" and reflect their inner stories into my artworks. My critical point of views try to reveal various issues among our societies, human lives and histories in my installations and they depict incomprehensible intertwining of personal consciousness that freely travels back and forth between the boundaries of reality and fiction. Drawn by emotions extracted from people living in foreign countries, people who lived in the past, and the people around me, I mirror the absence of erstwhile memories that are drifting around. Trails of awkward endearing emotions that are close to everyone's lives beyond any cultural differences and borders just appear there. 

 

Memories always keep going away from my head leaving only impressions in my mind. I make artworks by skimming only impressions from everyday afterimages that are losing those shapes. Drawn by emotions extracted from people living in foreign countries, people who lived in the past, and also my life and the people around me, I am imaging the presence of absence that are drifting around. Trails of awkward endearing emotions that are close to everyone's lives beyond any cultural differences and borders just appear there. Even records and historical facts also do not present memories but only produce impressions. Cutting out the outlines of reminiscences, the emotions that once stayed there are reflected onto the shaped silhouette as the impressions.


 わたしは表現において、誰の人生にも寄り添う不器用で愛しい日常の細々とした感情や痛みを、人々と共有しようとしている。

 記録や史実も、記憶は不在のまま、印象だけが生み出されて行く。異国の地に生きる人々や過去に生きていた人々、今を生きるわたしや周り人々の生活に遺された記憶や追憶の断片は日々意識の中から消えて行く。形を失った日々の残像から浮かび上がる印象だけをすくい取って、そこに漂う不在感を映し出だしてみると、思い出の輪郭は切り取られ、そこに象られたシルエットには、かつてその場所に在ったはずの感情だけが漂っている。

 それらを個人的な物語に見立て、写真、映像、音楽、言葉、古着や古道具といった、日常をとりまく様々なモノたちを複雑に配置して「人が足を踏み入れられる日常のドラマ」を組み立てる。そこに現れた空間は、現実と非現実との境界を往き来する主人公不在の舞台装置となって、結びの無い私小説の挿話を演じ、歴史や環境が生活の中に表出する社会の問題と内面の問題の関わりを私の視点を通して投影しながら、文化的差異やあらゆる境界を越えて共感できる普遍的な価値観は何かを探る場所へ、観る者を招き入れる。

 

記憶はやがて消え、印象だけが残る。
わたしのつくるものは、形を失った日々の記憶の残像の輪郭をなぞる。思い出は輪郭ごと切り取られ、そこに残されたシルエットは、かつてそこに在った感情の不在を投影し、印象がそこに生まれる。記録や史実も、記憶は形を留めず、印象だけが残されていく。異国の地に生きる人々や過去に生きていた人々、今を生きるわたしや周り人々の日常が表出する個人的な物語から、そこに漂う追憶の不在感を映し出だそうとしている。わたしの眼に映るものは、文化的差異やあらゆる境界を越え、誰の人生にも寄り添っている、不器用で愛しい日常の細々とした感情や記憶の痕跡だけだ。写真、映像、音楽、言葉、古着や古道具など、偶然に巡り合った気づきと材料で構成される空間は、親密な空気感や、結びの無い私小説の挿話を観る側に想起させ、現実と非現実との境界を自由に往き来する、ひとの不可解な意識の交錯を「人が足を踏み入れられるドラマ」のフレームワークの上に描こうとしている。空間に置かれる小さなモノたちは、生活や歴史の中で浮かび上がる社会の問題を、ときに批判的な眼差しを持って演じ、そしてそれらを観る人々もまた、それぞれの内面に現れる物語をそこに投影してく。その記憶もやがて消え、印象だけが残されていく。
記憶はやがて消え、印象だけが残る。
わたしのつくるものは、形を失った日々の記憶の残像の輪郭をなぞる。思い出は輪郭ごと切り取られ、そこに残されたシルエットは、かつてそこに在った感情の不在を投影し、印象がそこに生まれる。記録や史実も、記憶は形を留めず、印象だけが残されていく。異国の地に生きる人々や過去に生きていた人々、今を生きるわたしや周り人々の日常が表出する個人的な物語から、そこに漂う追憶の不在感を映し出だそうとしている。わたしの眼に映るものは、文化的差異やあらゆる境界を越え、誰の人生にも寄り添っている、不器用で愛しい日常の細々とした感情や記憶の痕跡だけだ。写真、映像、音楽、言葉、古着や古道具など、偶然に巡り合った気づきと材料で構成される空間は、親密な空気感や、結びの無い私小説の挿話を観る側に想起させ、現実と非現実との境界を自由に往き来する、ひとの不可解な意識の交錯を「人が足を踏み入れられるドラマ」のフレームワークの上に描こうとしている。空間に置かれる小さなモノたちは、生活や歴史の中で浮かび上がる社会の問題を、ときに批判的な眼差しを持って演じ、そしてそれらを観る人々もまた、それぞれの内面に現れる物語をそこに投影してく。その記憶もやがて消え、印象だけが残されていく。
記憶はやがて消え、印象だけが残る。
わたしのつくるものは、形を失った日々の記憶の残像の輪郭をなぞる。思い出は輪郭ごと切り取られ、そこに残されたシルエットは、かつてそこに在った感情の不在を投影し、印象がそこに生まれる。記録や史実も、記憶は形を留めず、印象だけが残されていく。異国の地に生きる人々や過去に生きていた人々、今を生きるわたしや周り人々の日常が表出する個人的な物語から、そこに漂う追憶の不在感を映し出だそうとしている。わたしの眼に映るものは、文化的差異やあらゆる境界を越え、誰の人生にも寄り添っている、不器用で愛しい日常の細々とした感情や記憶の痕跡だけだ。写真、映像、音楽、言葉、古着や古道具など、偶然に巡り合った気づきと材料で構成される空間は、親密な空気感や、結びの無い私小説の挿話を観る側に想起させ、現実と非現実との境界を自由に往き来する、ひとの不可解な意識の交錯を「人が足を踏み入れられるドラマ」のフレームワークの上に描こうとしている。空間に置かれる小さなモノたちは、生活や歴史の中で浮かび上がる社会の問題を、ときに批判的な眼差しを持って演じ、そしてそれらを観る人々もまた、それぞれの内面に現れる物語をそこに投影してく。その記憶もやがて消え、印象だけが残されていく。